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2009年11月26日アーカイブ

11月22日、桂浜荘(浦戸城址)で長宗我部セミナー「若者と語る!」が開催されました。

インターネットの「ミクシー」で連絡を取り合う「長宗我部最高委員会」などのグループの若者達、約40名が全国から高知に集まりました。

このようなツアーは、昨年の11月と今年の5月に続いて3回目だそうです。

昨年11月のツアーのとき、お世話役の方の提案で「長宗我部ファンクラブ」を作ろうと言う事になり、今年1月14日に高知市内で、長宗我部顕彰会の方々にもご指導いただきながら、本山町の30代の女性を代表にした、若い人達を中心に結成されました。

このセミナー(講演&シンポジウム)は、長宗我部ファンクラブが今回初めて企画したツアー行程の
一部として開催されたものです。

ツアー客、一般客合わせておかげさまで100名を超える皆様に参加して頂き、驚きとともに長宗我部への熱い盛り上がりを感じました。

 

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シンポジウム「なぜ今、長宗我部か?」~若者と語る・・・を県立歴史民俗資料館の宅間館長のコーディネーターで開催されました。

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画面左からシンポジストの大久保千堯 若宮八幡宮宮司、朝倉慶景郷土史研究家、尾崎正直 高知県知事、コーディネーター   宅間一之 歴史民俗資料館長です。

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画面右からシンポジストの「長宗我部ファンクラブ」田岡理恵代表、イラストレーター乾アイさん(今回の素晴らしいイベントポスターの制作も担当)、長宗我部最高委員会林太一総大将

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神事とは別に長宗我部祭のようなフェスティバルをやって、歴史をエンターテイメント性でもっと楽しくして楽しみながら歴史を知る取組みを、若者が中心になって企画していたらどうか!など・・・沢山の提案もいただきました。 

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第二部のトークセッションでは、会場から質問や意見、又紹介が行われました。 

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歴史に関する事柄、万、軍師承ります の六龍堂さんはじめ、仕掛け人3人が紹介されました。 

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               地元の熱心な女性からも・・・ 

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          高野県議会議員、県の行政担当者の姿もありました。 

IMG_9803.jpgシアターキュブリック結成十周年祈念公演第一弾「誰ガタメの剣」で、長宗我部元親を演じる方の紹介もありました。 

 

HN:サカチャン                                          

長宗我部ツアー に関する記事

HN:サカチャン さんの記事


室戸市の谷口總一郎さんが編集発行されている"高知県東部の地域雑誌" 「あおぞら」 が創刊一周年記年号(1991年10月号)で 

イラストで訪ねる懐かしの魚梁瀬森林鉄道」 の大特集を組んでいました。

 

「中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会」の清岡博基会長に連絡を取っていただき、谷口さんにお会いすることが出来ました。

編集発行人の谷口總一郎さんの了解のもと、「イラストで訪ねる懐かしの魚梁瀬森林鉄道」を連載しています。

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女性のファッション

 

 

イラストで訪ねる懐かしの魚梁瀬森林鉄道 に関する記事

国指定重要文化財 ー旧魚梁瀬森林鉄道施設ー

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・全体 に関する記事

魚梁瀬森林鉄道遺産 に関する記事

青空編集発行人・谷口總一郎  さんの記事


士族かたぎ(堅気)

 明治維新の変動で下級武士は困窮した。そんな世の中の狂いで、まともでは考えられないくらい士族の娘が百姓の嫁になってありついた。

 縫(祖母)は伊予西条の剣道指南役、栗本半蔵の長女として生まれ育ったが、ご維新の士農工商廃止、火災の類焼で家屋を失い、親子の生活は困窮した。

 当時、土佐は広うて開けてなく、暮らしよいと見込んで伊予から山を越して、土佐の嶺北地方に来てありついた人が多い。縫さんも人に誘われやって来たが、
気に入った働き口も無くて困っていた。

 百姓の寿太郎(祖父)は自作農になるまで、嫁は貰わず働くぞと決めて働きつめて、自作農になったときは三十四才になっていた。さあ、嫁を貰おうかとしたが、当時は男女共に早婚で、娘は二十才前で嫁入りしていたので、嫁に来てくれる娘が居らん。

 困っていた時に、伊予から働きに来ている体格のええ娘がおるが話してみたらと聞いて、早速話し合うてみたが、「百姓は自分にはむかん」と、ガンとして聞き入れない。

 「百姓はせんでもよい。子供を生んで育ててくれ。食べることには事欠かん」と言いくるめて、やっと嫁にした。時に、縫さん十七才で、寿太郎さんと十七も年が違っていた。

 さあ子供がつんどこ出来て、縫さん子育てに忙しい。躾はとっても厳しい。他人にへごはしもせん(悪いことはしない)、受けもせんと、士族の堅ぶつ。

 小学生の子供らが草原のねき(傍ら)の柿や栗を遊びに取りでもしたら、「よその物を取ったら泥棒じゃ、取られん」と大声で怒鳴りつける。

 縫ばあさん、孫の私に「侍は人の手本じゃけ(から)、善悪をはっきりと心得て、武士は食わねど高楊枝、たとえ飢えて死んでも、人の物には手はつけん」。へごなことはせんと腹を決めちょる。それから、「こらえれん、とか、たまらんぜよ(辛抱しがたい)とは絶対に言わん」「男はヒイヒイ泣くようなことじゃあ駄目、侍ばあ(くらい)しっかりせにゃ、いかんぜよ」と、よく言われた。

 士族育ちであっても、百姓の嫁になったのに縫さん子育てに追われ、自分に厳しくろくに百姓はせざった。
 一生袂つきの着物を着て、いつもキチンとかしこまって座っていて、何となく威厳があった。
 とってもむつかしいお祖母さんであったが、今になって思い出すと、士族かたぎがなんとなく懐かしい。

◎昔の士族は、痛むことがあっても、痛いとは言ったが、痛いけこらえれんとは言わず、どんなにうるさいことでも、こりゃたまらんと、弱音は絶対に吐かなかったと。
 

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