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2012年1月10日アーカイブ

国清寺 
 前回の国清寺(高知城下の鬼門の守り神の牛頭天王宮(現掛川神社)の別当寺であった)の第4世住職に黙堂和尚が就いた。

 黙堂和尚は、黙堂寺縁起によると、1679年?に下野の国(栃木県)に生まれ、天台宗比叡山で12年間修行し、42歳で国清寺住職となる。同寺は牛頭天王宮とともに藩主の尊崇を受けた。62歳で同寺を辞して石城寺を建て、82歳で没した。

赤坂観音堂と石城寺跡
 石城寺は黙堂和尚の引退後の寺で、天台宗国清寺の末寺。黙堂寺の南の山麓にあったとされ、寺地は約620坪(2050㎡)といわれるが、その伽藍は不明。幕末から明治にかけて起こった廃仏毀釈で廃寺となった。現在は観音堂(準胝観音、写真上)と宝篋印塔(写真下)が残る。

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黙堂寺(真言宗)
 寺縁起によれば、本尊は準胝観音で、黙堂和尚の墓を守る本堂、五大力明王の護摩道場、鎮守清瀧大権現の祠がある。

 昭和の初期に寺の開祖が難病となり、法経堂の地蔵尊に願掛けの後、下の方からの呼び声をたどると黙堂和尚の墓に到った。そこで願掛けすると難病が直ったことから、墓を守る祠を建てた。戦後間もなく本堂を建立した。(写真上は黙堂寺入口。写真下の左奥の山頂に見えるのが「法経堂」)

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法経堂

 黙堂和尚は法力に優れていたという。

 比叡山の火災をその上空に雨雲をもたらして消火したとの話が伝わる。

 また、土佐藩飛脚が江戸からの重要書類を運ぶ途中、法経堂でその書類がないのに気づき、来た道を引き返して懸命に探したが見つからず、ついに責任をとって自害した。

 その後、書類を探すケチ火(怪火)が出没し、人々が恐れた。

 それを聞いた黙堂和尚は、石の地蔵尊と宝篋印塔を法力で軽くして人々に運ばせ、地蔵尊と宝篋印塔を建てて自害の飛脚を供養した。

 その後、ケチ火がおさまったので、同和尚はここを法経堂と名付けたことから、多くの人の参拝が続いたという。

 地元の古老から、法経堂は小学校の遠足場所であったと聞く。(写真上は地蔵尊。写真中は宝篋印塔。写真下は岩場からの遠望)

 宝篋印塔の南に岩場がある。ここから浦戸湾から以東が見渡せる。

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黙堂寺から法経堂までは、距離2km、歩いて45分〜1時間。健脚の人は法経堂からさらに北へ歩くと、正蓮寺ゴルフ場に出る。ゴルフ場に沿って東へ歩くと、土佐神社へ到る「四国のみち」がある。


 黙堂和尚関連史跡案内図

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HN:バンダナ



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