土佐神社
場所は、高知市のJR高知駅より東北へ約4km余り、JR一宮駅より北へ1kmの地点にある。
土佐神社は志那祢(しなね)様で親しまれ、毎年8月下旬の志那祢祭は土佐三大祭として賑わう。
志那祢とは、風の神の「志那都比古」からとも、新稲がつづまったともいう。
土佐三大祭とは、志那祢祭、一条祭(四万十市)、三つ目が面白いことに久礼八幡宮祭(中土佐町)、秋葉祭(仁淀川町)、椙本神社(大国様)祭(いの町)というようだ。
社名は、都左坐神社や土佐高賀茂大明神などを経て、明治4年(1971)に現社名に改称された。
(下の写真は楼門。参道への入口。楼門左側の道は参道に沿った車道で、奥に駐車場がある。
祭神は、味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ。事代(ことしろ)主神とも)。二祭神(同一神とも)は古来より賀茂氏が大和葛城で厚く祀った神で、葛城氏または同族が土佐国造(くにのみやつこ)に就任の折り土佐に祀られたと伝える。
創建は、雄略天皇(5世紀後半)時代とされ、土佐の総鎮守である。
社殿は、永禄6年(1563)長宗我部元親と本山氏との戦火で焼失したが、元親が四国平定を祈願して元亀元年(1570)に再建した。
再建の様子が「土佐物語」(宝永5年(1708)吉田孝世著。軍記物語)にある。
「京都より大助(大助かり)とて隠れなき上手の大工、並びに桧皮師を呼び下し、同(永禄)十年(1567)手斧始め、元亀元年(1570)棟上げ有り。四十座の末社、仁王堂、護摩堂、鐘楼堂、三昧堂、経蔵、宝蔵、経所、東西の塀門、一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居、三重塔、神宮寺、長福寺、和尚・神人の社屋などにいたるまで造営し...工人妙を極め、丹青(彩色)の飾りを尽くし、言語道断(言葉で言い尽くせないほど立派な様子)の壮観なり」
当時の神社の伽藍の壮大さが伺われる。
社殿は入蜻蛉(いりとんぼ)式建築。古事記に雄略天皇が蜻蛉を勝虫(トンボは前進飛翔する)と名付けたことから、勝運をもたらす蜻蛉式にしたと伝わる。凱旋して勝虫が還った様、すなわち、北奥へ頭を向けた状態である。
元親は当神社を凱旋報賽(ほうさい)の社(凱旋のお礼参りの神社)として崇尊した。
ちなみに、長浜の若宮八幡宮の社殿は出蜻蛉式建築である。
永禄3年(1560)、元親は父国親に従い本山氏の支城の長浜城を攻略した際、長浜の若宮八幡宮の馬場先に陣所を構え、初陣の戦勝を祈願して勝を納めた。この契機に若宮八幡宮を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉式建築(拝殿が蜻蛉の頭部、本殿が蜻蛉の尻尾)に改めた。出陣に際し、勝虫が今飛び立つ様、すなわち、頭を南手前に向けた状態である。
土佐神社の国重要文化財は次の通り。
社殿(本殿、幣殿、拝殿) 元亀元年(1570) 元親建立。明治37年(1904)指定。
鼓楼 慶安2年(1649) 2代藩主忠義建立。昭和9年(1934)指定。
写真下赤い建物が鼓楼。鼓楼は鐘撞堂のことで、鐘はないとのこと。
楼門(神光門)寛永8年(1631) 忠義建立。昭和57年(1982)指定。
善楽寺(三十番札所)
桓武天皇の頃(781〜806年)、大師が一ノ宮(土佐神社)別当寺(神社に付属して置かれた神宮寺)として建立し、30番霊場とした。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、昭和4年(1929)、大師像や寺宝がもどり復興した。
なお、善楽寺の代行を勤めていた安楽寺は善楽寺の奥の院となっている。
礫石(つぶていし)
古伝に土佐大神が御船で土佐に遷った時、浦の内に宮(鳴無神社)を建てた。480年頃、御神体が顕われ、ここは神の御心にかなわずと大きな石を投げ、その石の落ち止まる所に宮を祀れと仰せあった。その石は不気味な音をたてて飛び、14里を隔てたこの地の上空を7日7夜廻って落下した。
この石は、この当神社地を決定した大切な石で、古来これを礫石と称した。浦の内の鳴無(おとなし)神社と当神社との関係はこうした経緯があり、かつては、当社の御神幸が船で浦の内へと行われた。この神社地は蛇紋岩の地層で、礫石は珪石であることから、学会ではこの石を転石と称して学問上特別の資料とされている。
HN:バンダナ





最近のコメント