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タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

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これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

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記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

 Img087  万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

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 2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

Img092   「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

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会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

 

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)



宜野湾市森の川


宜野湾市には、森の川(ムイヌカー)と呼ばれる由緒ある泉がある。
                   森川公園になっている。石積みが見事な泉である。この辺りは湧水がとても多いところだ。水源は、この公園の北側の高台に広がる米軍普天間基地だ。水路から、こんこんと水が流れている(左)。その昔、この森の川に、奥間大親が来たところ、天女が水浴びをしていたので、木にかけていた衣を隠した。困った天女を家に連れて帰った。
一男一女が生れ、その子・察度(サット)は後に、中山国の王に就いた。まだ琉球が統一される前である。だから、森の川は羽衣伝説の地として知られる。
察度王は、当時の明国に朝貢し、中山国王として任命してもらう冊封(サッポウ)関係を結んだことで知られる。
 この水路の奥に、実は円形の石積みの囲われた空間がある。この日は、シルバー人材センターのおじさんたちが、清掃をしていた。何か、誇りを持って丁寧に清掃していた。



                         
「ここは囲われているから、水浴びをする場所だっただろうね」と説明してくれた。左写真では、残念ながら円形が見えない。上から見ると見事な円形である。「沖縄戦で壊されたのですか?」と聞くと「いや、少し壊れたところは、白い石で復旧してあるが、他はほとんどは壊れずに残ったので、昔からの石積みですよ」という。

 
 沖縄のあちこちで、城跡をはじめ石積みの遺跡をみるが、ほとんど壊されて、戦後に復元させたものだ。でもここはよくぞ残ったものだ。なぜだろうか?



                                               多分、日本軍が陣地を造っていたのは、宜野湾でももっと南に当たる嘉数高台から那覇にかけての高地だった。だから、読谷近辺に上陸した米軍は、嘉数高台までは、日本軍の抵抗をほとんど受けず、一気に進軍した。この付近は素通りしたので、壊されずに残ったようだ。おじさんに尋ねると「そのようですよ」と肯定していた。 左の絵は、昔の住民か水場を利用していた風景である。

「この辺りはカー(泉)が多いので、戦前は那覇にも導管で送っていた。この北側にも、ここよりもっと大きいカーがあるよ」という。「エッ、もっと大きいんですか! その場所って、ひょっとして普天間基地の中じゃないですか」と言うと、「そうそう、基地の中だから、自治会でカギ借りないと入れないよ」「そうですか、じゃあ、カーで何か行事のある時は、カギを開けて入るわけですね」「そうそう」。おじさんは、こともなげに話す。

 この泉の隣には、これまた由緒ある「西森御嶽(ニシムイ ウタキ)」がある。神聖な拝所である。碑もあり、その前に石門が造られている(下)。琉球王国の時代、由緒ある拝所の前には門を造っていた。門の中は神聖な森である。他には何もない。

 


 琉球王国の尚清王につながる向氏伊江家の人々が、18世紀に森の川の石積みと石門を建てたそうである。普天間基地の中には、昔からの御嶽もある。お墓もある。カー(泉)もある。一日も早く、基地が閉鎖、返還されれば、自由に出入りできるだろう。
 由緒ある井泉を見て歩いても、米軍基地問題に突き当たる。それが沖縄である。


沢村さんの沖縄通信 目次

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土佐湾沖の海底にあるメタンハイドレートを掘り出す国家プロジェクトを、高知県に誘致して、

日本を資源大国にすると共に、高知県の活性化の一つの起爆剤にする事を目的に、

高知県メタンハイドレート開発研究会が主催する

 

海底資源の講演会 ご案内

 

とき: 2012年 2月16日(木)、午後3時~5時 

ところ: 三翠園 階「桜の間」  (参加無料)

(高知市鷹匠町1-3-35 088-822-0131

 

〇開会あいさつと講師紹介 

 

鈴木朝夫・高知県メタンハイドレート開発研究会理事長(高知工科大学名誉教授・東京工業大学名誉教授)

 

〇講演 最新の海底資源研究の状況について(JAMSTECの海底資源研究)(60分)

 

講師 木川栄一  (独立行政法人 海洋研究開発機構 海底資源研究プロジェクト プロジェクトリーダー)

 

〇質問や情報交換の時間 (50分)

 

日本近海のメタンハイドレート予想分布図

 

「燃える氷」メタンハイドレートとその結晶構造

 

メタンハイドレートを掘り出す国家プロジェクトの拠点を、高知県に置く事の優位性は!

〇高知県の立地条件 (地の利を活かす)

 (1)高知新港・FAZがある。

 (2)高知大学に「海洋コア総合研究センター」が誘致されている。

 (3)高知龍馬空港も2500mの滑走路になっている。

 (4)高速道から伸びる高規格道が、FAZや空港を結んでくれる。

 (5)海岸近くに多くの平地がある。

 

 

 

 

高知県メタンハイドレート開発研究会 問い合わせ・連絡先 

 

鈴木朝夫・理事長(携帯 090-3461-6571 s-tomoo@diary.ocn.ne.jp 高知工科大学名誉教授・東京工業大学名誉教授)

 

坂本耕平・事務局長(携帯 090-2781-7348 info@kochifc.net "高知を元気にするボランティア集団"「高知ファンクラブ」運営事務局長)

 

 


高知でも 雨水を活用する取り組みをしませんか!

「雨水ネットワーク高知」設立記念イベント

とき: 2012年 2月11日(土)、14:00~16:30 (参加費無料) 

ところ: 高知市立自由民権記念館 

(高知市桟橋通4丁目14-3 088-831-3336

 

 

皆さんの参加をお待ちしています。

南国市の十市パークタウンにある、細木茂氏設計のエコハウス展示場と、その中に設置されている雨水タンク

展示場連絡先 電話:088-879-5648

 

設立記念イベント内容 

1、エコハウス・エコライフの家づくり(30分)

講師: 細木 茂(細木建築研究所代表取締役・エコハウス展示場設計者)

2、東日本大震災での避難生活現場を見て(避難先での水問題を考える)

 講師: 山崎水紀夫(東日本大震災支援プロジェクトこうち代表)(20分)

3、潮江中学校で取り組む南海地震への備えと地域との連携

 講師: 宮田 龍(高知市立潮江中学校校長)&潮江中学生(30分)

4、雨水利用の事例紹介 

講師: 大西和也(雨水利用事業者の会会長・㈱タニタハウジングウエア)(15分)

5、雨水を無動力で飲料水にする、簡易ろ過装置とは・・・

説明者: 安宅正雄(紀和工業)(10分)

6、雨水利用における質問・意見交換(15分)

7、「雨水ネットワーク高知」の設立(30分)

 

「雨水ネットワーク高知」 設立準備会 連絡先

 坂本耕平(090-2781-7348 tukasa1@ir.alptec.net  info@kochifc.net    "高知を元気にするボランティア集団"「高知ファンクラブ」運営事務局長)

  安宅正雄(088-832-2155 090-6889-2257紀和工業)

 

南海地震などでの、一時避難箇所の飲料水確保にも役に立ちます!

飲料水などの貯蓄にはおのずと限度があります。 避難箇所の学校などで、数百人が数日間の一時避難を余儀なくされたとき、山火事などの消化に活用されるヘリコブターで、水を鏡川中流域から汲んで来て、雨水の代わりに避難箇所の屋上に落とせば、雨水タンクに流れ込みます。

雨水を飲料水に変える、簡易ろ過装置(無動力で稼動するので、電気がストップしても大丈夫)を活用すれば、飲み水が確保できるのです。

 

 

雨水を貯めて、利用しませんか!

水道料の軽減と、エコな取り組み 高知でも進めませんか!

この装置を、徳島県教育委が2高校に、3月までに設置予定です

南海地震などの災害時

(水道・電気がストップしたとき)

初期消火に、水洗トイレに

簡易ろ過装置で飲料水に!

☆日常 

庭の散水や花木の水やり

洗車などに

 

雨水を貯める3つの効果

①水資源対策

貯留タンクに貯めた雨水は、樹木・草花への水やりや、庭の散水など雑用水として、有効利用できる。

②防災対策

貯留タンクに貯めた雨水は、突然の災害などで水道が止まってしまった時、非常時の生活用水として利用できる。

③治水対策

屋根に降った雨を貯留タンクに一時的にためることで、水路や側溝などに一挙に流れ出る雨水の量を減らすことができ、浸水被害を減らすことにつながる。

 

 

ある学校の屋内練習場の屋根に降る雨を集めて、グランド整備の散水に利用すると・・・(雨水を年間300トン利用することが分かった)上水道を利用していたのと比較すると...水道料を幾ら節約できたのか?上下水道の処理に必要な電気エネルギーは、(その地域によって異なりますが)、環境省は水1トン当たり 579グラムのCO2の排出量になるとしているようです。

 

 

HN:雨水ネットワーク高知設立準備会事務局

目次


こんな祝う会も・・・鈴木朝夫先生の叙勲を祝う会(その1)

2011年11月11日、三翠園で鈴木朝夫先生の叙勲を祝う会を開催しました。これには222名の方が参加されて、実に楽しい祝う会になりました。

1が6個と2が3個並ぶなど、偶然のなかにも・・・鈴木先生の誕生日(十月十日)を表わす文字 朝・・・をつけたご両親の思いを感じながら、あまり例を見ないユニークだった祝う会の取り組みをお伝えさせていただこうと思います。

(団体・グループの活動紹介と鈴木先生の関わりなど記念誌を作成・配布して、異業種交流の楽しい"祝う会"になれば・・・と言う事で!・・・グルポ・デ・アルボル会長の高橋 亮さん(大国印刷)が、5,000円の会費の中から捻出して発行して戴きました。)

  

案内状を出すのがお決まりですが、今回はA4一枚のチラシを作成して、呼びかけ人の皆様にメールで添付したり、FAXや届けたりでした・・・一部に戸惑った方もおられましたが、参加者や記念誌の原稿などをメールやFAXでいただいたり、事務局としては比較的楽な取り組みになり、お金もかかりませんでした。

鈴木朝夫先生の叙勲を"祝う会"のご案内

 

鈴木先生が、今年の春の叙勲で「瑞宝中綬章」を受けられました。 

日頃から鈴木先生と関わっている様々な分野の仲間で、"祝う会"を計画しました。

お元気で活躍されている鈴木先生ご夫婦を囲んで、お互いにざっくばらんに交流しませんか!

 

とき:11月11日(金)18:00~20:30 

ところ:三翠園(富士の間) 

会費:5,000円(当日会場でいただきます)

 

 (鈴木朝夫先生がこれほど多くの団体と関わられているのか!とビックリされた方もおられました。これ以外にも、11月2日に 故松尾徹人・元高知市長の後を受けて就任された 高知県高坂学園 生涯老人大学 学長 もあり、関係の方も大挙して参加戴きました。) 

 

 

呼びかけ人

末松安晴(東京工業大学学長・高知工科大学初代学長)

西山 武(地元香美市・高知県土佐刃物連合協同組合理事長)

浜田正彦(高知工科大学統括本部長)

原田 悟(高知県産業振興センター理事長)

竹村維早夫(司牡丹酒造()会長・元高知県公安委員長)

高村禎二(高知エコデザイン協議会会長)

川村貞夫(高知県エコ議員連盟事務局長)

浜田英宏(高知県新エネルギー議員連盟会長)

北村和彦(高知県技術者協会理事長)

宮本典晃(高知県メタンハイドレート開発研究会副理事長)

日和崎三郎(高知県宇宙利用推進研究会幹事)

沖野和歌子(NPO牧野の森事務局長)

中森道雄(緑サポーター会会長)

浜田吉成(高知県緑と水の会ネットワーク代表幹事)

島崎俊弘(森ときのこを愛する会会長)

濱氏 拡(情報交流館ネットワーク)

根木勢介(83・はちみつプロジェクト代表)

山崎三郎(アサギマダラの里in秋葉山事務局長)

坂本耕平(高知ファンクラブ運営事務局長)

岡林照壽(仁淀川流域"宇宙桜の会"会長)

森田俊彦・石川妙子・おかもとあつし(鏡川・仁淀川・物部川こども祭実行委員会委員長)

高橋 亮(グルポ・デ・アルボル会長)

阪本由美(地方仏研究会事務局長)

安宅正雄(雨水ネットワーク高知準備会会長)ほか 

 

"祝う会"の持ち方・運営は

     呼びかけ人を中心に、実行委員会を作って! 実行委員長は高村禎二さん(高知エコデザイン協議会会長)

     席もバラバラではなく、団体・グループの参加者がまとまって座り、気楽に交流が出来るようにする予定です。

     団体・グループの活動紹介と鈴木先生の関わりなど記念誌を作成・配布して、異業種交流の楽しい"祝う会"になれば・・・と!

     参加者を、団体・グループごとに集約していただき、"祝う会" 事務局までお知らせいただけたら嬉しいです。(直接の場合も下記へ)

     "祝う会" 事務局:坂本耕平(高知ファンクラブ運営事務局長)

Mail: info@kochifc.net  携帯: 090-2781-7348   電話・FAX: 088-842-7649 

 

 

鈴木朝夫先生の叙勲を祝う会 次第

  2011年11月11日(金)18時~20時30分 三翠園「富士の間」

                 司会・進行(アルボルの若者集団が担当します)   18:00 開宴

 

    高村禎二 実行委員長 (高知エコデザイン協議会会長)ごあいさつ

    佐久間健人・高知工科大学 学長 祝辞

    末松安晴(元東京工業大学学長・高知工科大学初代学長)様 スピーチ

    門脇槙夫・地元香美市長 スピーチ

    浜田吉成(樹木医会高知県支部長・高知県緑と水の会ネットワーク代表幹   事)様スピーチ        

    松岡さゆり・高知県商工労働部副部長より 鈴木朝夫先生の"歩んだ道"をふり返る

    鈴木朝夫先生ご夫婦に 二人の孫(浜田暖(ひなた)と浜田柊(しゅう)君より 花束贈呈 高知工科大学卒業生・・・

    鈴木朝夫先生ご夫婦より 謝辞

    竹村維早夫・司牡丹酒造()会長・元高知県公安委員長)より 宇宙酒で乾杯

(高知県宇宙利用推進研究会と酒蔵組合のお世話で、ブランド化された宇宙酒を準備して戴きました)

祝宴に入る

仲間同士で、親交をあたため交流しましょう!元気な人は、異業種交流もしましょう!

 

 

余興もあります!

①高知工科大生のアカペラ!

②土佐山田町の岩崎しげ子さんの南京玉簾(ナンキンタマスダレ)

③高知草笛の会、門脇毅さんと井上和夫さんの草笛・ウグイス笛とテレビでもお馴染みのパフォーマンスが登場! 

 

20:30 浜田英宏・県議会議員(高知県新エネルギー議員連盟会長・高知県エコ議員連盟会長)より中締めの ごあいさつ         お開き

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


2011年11月から12月にかけての10日間、3度目の石垣島訪問をしました。

娘が嫁いでおり、3人目の孫(男児)の誕生と言う事で、妻と一緒に出かけました。

娘婿は、石垣市内の大きなホテルの料理長をしていましたが、独立して昨年(2011年)の5月に「琉球割烹ダイニング 司」をオープンしており、これも訪問する楽しみの一つでした。

これまで2回 石垣島に行った時は、娘夫婦が石垣島や西表島・竹富島を案内してくれており、特に竹富島は印象に残り、今回も石垣島10日間の滞在期間中に3回訪問しました。

竹富島で、観光コースをバスで観光しました。

フェリーを降りると、埠頭には数台の観光バス(画像のように10人乗り?のジャンボタクシー)が停まっており、運転手兼ガイドさんがこの女性です。

数人集まると出発します。観光時間は1時間足らずで、お一人様1,000円。竹富島の概要をガイド説明しながら運転して、町並みから離れた観光コースに案内してくれました。

   

私たちが乗った観光バスは、旅行者が6人でした。小回りの効くバスと運転手兼ガイドさんの女性の丁寧な説明とで、周りの旅行者もうちとけて楽しんでいました。

 

写真を撮ってくれたり、この辺で良く見つかるようですよ・・・と、「星砂」探しのアドバイス・・・リピーターが多いこともうなづけます。

海の美しさが目に焼きついて、もう一度来ようと思ったのは私たちだけではないのでは・・・

 

 

 

 

島民の8割が観光で生活をしています・・・と言う説明がありました。ネット上で調べると竹富島を訪れる観光客数は、平成元年の約86,000人から、平成17年には約416,000人に!

生活の中で育まれた文化遺産を観光資源として生かしていること・・・

日本最南端のお寺「喜宝院(きほういん)」と、併設する民俗資料館の「蒐集館(しゅうしゅうかん)」の館長・上勢頭芳徳さんのお話によると、2011年10月現在、世帯数165戸、人口357人(5月比11人増で、4人の赤ちゃんが生れた)、1955年より100人増えているとのこと。

町並みを彩る風景には、家の周りにきれいに積まれた石垣や年間を通して咲き乱れる花々・樹木などもあり、また何よりも島民挙げて、この風景を大切に守ろうとする心意気が、大きい事を知りました。

 「竹富島フィールドミュージアム」として、島全体を博物館と位置づけ、様々な取り組みをされている事は、私たちの高知にも"吉良川の町並み"をはじめ、県下には素晴らしい町並みや自然があるので大変参考になり、先進的なモデルとなります。

そのなかで、小回りの効くバスと運転手兼ガイドさん・・・体験型の観光を目指す高知県でも考えて見たいものです。

 

 

 

瓦職人、小浜真英 氏作のシーサー に関する記事

竹富島に関する記事

石垣島に来られたら寄ってみませんか

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)



宜野湾市の喜友名泉


米軍普天間基地のある宜野湾市には、たくさん湧水の名所がある。その一つに、「喜友名泉」がある。喜友名はいまの読み方は「キユナ」だが、この湧水は方言読みで「チュンナーガー」と呼ぶ。
 この湧水は、なんと米軍の「キャンプ瑞慶覽(ズケラン)」の中にある。でも、住民にとって生活用水としてなくてはならない泉で、由緒ある湧水である。だから、基地の中でも、金網は住民が立ち入れるように仕切られている。でも勝手には入れない。市教育委員会文化課に連絡すれば、鍵を開けてくれた。『ぎのわんの文化財』の冊子もいただいた 。


 
那覇から国道58号線を北上し、伊佐の交差点から普天間デイゴ通りに入るとすぐに、左側に「喜友名泉」が見える。入口からして立派だ。入り口にもすでに石造りの碑川が作られ、水が流れ出ている。現在でも喜友名泉は、ポンプアップして、簡易水道として、畑の散水などに使われている。

 

厳重なアメリカ式のカギを開けてもらい、金網の中に入ると、坂道を降りて行く。石畳の道もある。見えてきた、見えてきた。昔からの湧水らしいとても雰囲気のある泉である。普通、湧水は「井戸(カー)」や「樋川(ヒージャー)」という名前が多いが、ここは「泉」の字を使っている。  
 二つの井泉がある。左側の泉を「イキガガー」と呼ぶ。「イキガ」とは男性を意味し「男の泉」。右側の「カーグヮー」は「イナグガー」と呼ぶ。「イナグ」とは女性なので「女の泉」を意味する。


 
 左写真は「イナグガー」である。イナグガーの正面の壁には、なんと3か所も湧水口がある。湧水口の上には、庇(ヒサシ)がついている。おもに、日々の飲料水や洗濯によく利用されたという。「イナグ」の名がついたのは、水汲みや洗濯などは主に女性が担っていたので、女が使う泉として名付けられたのではないだろうか。


名前の由来は、冊子にも書いていない。私の推測である。
 湧水口の前に、長い机のようなものが二つある。もしかして、これに腰をかけて洗濯などするために置いたのではないだろうか。湧水口とは反対側の壁際には、石造りの棚のような形のものが置かれているこれは何のためだろうか? やはり、水を汲んだカメや桶、洗った野菜、洗濯物など置くためだろうか。わざわざ窪みがある。考えられるのはそんな用途である。ちなみに、左側の「男の泉」には、こんなものは何もない。




 「イナグガー」の左側に、石積みで仕切られた三角形の空間がある。これはなんだろうか? 
 後から出てくる宜野湾市の「森の川」を見たとき、円形の石積みで仕切られた場所があった。それは水浴びをするためだった。こちらの三角形の場所も衝立で仕切った形なので、水浴びをしたのかもしれない。でも、仕切っても天井はないので、周りから丸見えである。だから違うのかもしれない。まだ謎である。

「イキガガー」(男の泉)は、左側の壁と正面の壁の2か所に湧水口がある。あとは何も置かれたものはない。


こちらの泉は、部落の節々の拝み(祈願)や正月の「若水」(ワカミジ)汲み、子どもが生まれた時の「産水」(ウブミジ)、人が亡くなった時の「死水」(シニミジ)など人生の折り目の時に使われたそうだ。
 もう一つ別名がある。「ウマアミシガー」と言う。つまり牛馬の水浴びに使われたという。これは男の仕事だっただろう。でも、拝みは女性が担うのが普通である。

 この泉はいつ造られたのか? 右の「イナグガー」に置かれた香炉は、明治22年(1889)の奉寄進で、この年に新造ないし修造されたと考えられている。それほど古くない。左の「イキガガー」は、もっと古い感じがする。
 「喜友名泉の水源利用の開始及びウフガーの築造年代は、湧泉の周辺に生えている樹齢数百年のアコウ大木から推測されます」(『ぎのわんの文化財』)と言う。築造がいつか断定していないが、琉球王府時代からのものであることが推測される。


 この湧水は、喜友名の集落からは、相当低い位置にある。集落から泉に来るのに、急勾配の石畳の坂道が約100㍍も続く。高低差が25㍍もあるという。昔は、飲料水など水汲みは、主に女性の仕事にされていた。それで、水汲みがきついので、喜友名には、他の部落からお嫁さんのきてがなかったという。その半面、水汲みをするためか、喜友名の嫁さんは「働き者」という評判だったそうである。


 でもやはり、喜友名の娘さんたちの朝夕の願いは、カービラ(泉に降りる坂道)が少しでも低くなるように願ったそうである。
住民の中でも、いまでも御願(ウガン、祈願)に来る人がいるのだろうか、金網の外側にお線香を焚いた残りがあった。たぶん、金網の中に入りたかったけれど、鍵が閉まっていたので入れず、金網の外で御願をしたのだろう。これも米軍基地の中に、由緒ある泉があるがためである。
 この喜友名地区は、南側は広大な普天間基地があり、北側はキャンプ瑞慶覽がある。米軍基地にサンドイッチされたような住宅街なのである。
 基地の中には、住民が古くから利用してきたこういう湧水や拝所、お墓などがある。なぜ、わが郷土の由緒ある場所が外国基地として占拠されているのか。鍵で開けてもらわないと入れないのか。理不尽さを痛感する泉である。


沢村さんの沖縄通信 目次

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)


浦添市の沢岻樋川

浦添でももう那覇市のすぐ隣になる沢岻(タクシ)を歩いた。いくつか拝所など巡ったあと、沢岻樋川があるはずなので探した。なかなか分らない。人に聞いても分らない。展望がよい場所に出たので写真を撮っていた。振り返ると、マンションのそばに史跡らしいものがある。それが沢岻樋川だった。


樋川は、水槽がいくつにも区切られている。飲料用や野菜や食器など洗うところ、衣類を洗濯するところなど用途によって分けられているのだろう。高台のとても眺望のよい場所なのに、水は多く、いまでもとても透明度が高い。のぞいてみると、小さな魚が何匹も泳いでいるではないか。

 普通、井泉ではあまり魚は見ない。でもここはなぜか棲んでいる。この樋川はとても由緒あるそうだ。由来と琉歌が書かれた立派な碑がある。
「沢岻樋川やかりーな泉 首里御城に若水ゆうさぎてぃ 千年万代栄えうにげ」。「かりー」はめでたい、縁起が良いという意味である。説明文には要旨次のように記されている。

 

 沢岻樋川は1000年余りの歴史がある。琉球王朝の頃、風水の方位がよく、水質も良い泉であり、正月には国王の長寿・繁栄を願い、若水を献上したという。琉歌はそのことを詠んでいる。1999年修復とあるから、昔からこういう碑があったのだろう。若水汲みについて、あとから詳しくふれたい。


沢村さんの沖縄通信 目次

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)


浦添市の仲間樋川



琉球が統一される前、中山国(チュウザンコク)の王都だった浦添市の浦添グスク跡に近い集落、仲間を歩いた。ここには、大きな仲間樋川(ナカマフィージャ)がある。このあたりは、沖縄戦の激戦地である。
 樋川は市内で最も大きい井泉の一つ。仲間集落の村カー(共同井戸)として大切にされてきた。樋から水が豊富に流れ出ている。
 昭和10年(1935)コンクリートの近代的な改修がされた。上部の水タンクに水を貯め、次に洗濯などする「平場」をへて、最後は農具や農作物を水洗いしたり、馬の水浴びなどする「ウマアミシ」にたまるように造られている。


この樋川は戦争で大きな被害を受けず、仲間の収容所に集められた数千人の人々の生活水をまかなった。


                      
上水道が整備される昭和40年代まで、水を利用する人たちでにぎわったという。
 いま見ても、とても規模が大きい。水量も豊富である。なかなか見事な樋川である。いま夏休みで子どもたち10人ほどが集まり、水遊びに熱中していた。
         


 グッピー(小さな魚)がいると言って、網ですくったり、水かけをしてはしゃいでいる。楽しくてたまらない様子。時間の立つのも忘れるだろう。中学生らしいニイニイが一人いて、しっかりリードしていた。子ども時代に、田舎の川で遊んだことを思い出す。いまではとても懐かしい光景だ。



 

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)


次に向かったのは宝口樋川(タカラグチフィージャー)。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、標柱がある。この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。
 湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと分からないことが多い。



宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。

宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。

                         樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
 ここには、とても立派な碑がある。右から「宝桶」と記され、この樋川の由来など記されている。

  

 


                                                                        

碑の表は1807年に記されたもの。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。

 この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミスキジョアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、紙漉が行われていたそうだ。琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。



1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
 桃原本通りを南に行った山川の近くの急傾斜地を降りていくと、「さくの川」の樋川に出る(左)。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。地下水は、崖の相当奥にあるようだ。

 



 巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を、なんと10個ほどもつないだ樋で水を導いている(右)。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。まるでトンネルのようになっている。

 

この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
 ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
 この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、やはり紙漉という産業にも用いられていた。
 井戸や樋川を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。首里に石積みの井泉が多いのは、石積み工が多くいたこともあるそうだ。

 

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