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沖縄ジョン万次郎会の名嘉真和彦事務局長と昨年末、偶然知り合いになった。それが縁でこの同会「20周年記念誌」を送っていただき、私も「沖縄で愛される中浜万次郎」と題する拙文を送った。 

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 沖縄ジョン万次郎会の新年会に光栄にも、夫婦でお招きをいただいた。会場は、万次郎の記念碑が建てられた翁長共同利用施設である。公民館のように使われている建物だ。建物のすぐ裏手に万次郎が滞在した高安家がある。

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会長の大城光盛さん、前会長で顧問の大城盛昌さん、副会長の大城恵子さん、与那覇正文さん、そして万次郎が半年間滞在した高安家の5代目当主の高安亀平さんらを紹介され、挨拶を交わした。万次郎会の活動のことは知っていたが、まさかこんな形でお招きされて、みなさんとお会いできるとは、夢にも思わなかった。

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写真は左から大城会長、大城顧問、高安さんである。高安亀平さんは、5代目当主となる。昭和4年(1929)生れなので、1827年生れの万次郎とは102歳違い。ことし数え年で85歳になるそうだ。とても元気そうだ。それぞれが万次郎についてのエピソードを話してくれた。
 万次郎は、琉球の大度浜海岸に上陸して、この豊見城村の翁長集落に来た。高安家に滞在したが、ここにきて1週間でもう外に出て、村の住民と交流し、方言も覚えたという。スゴイ言語力だ。沖縄の古い家は、家に入る正面に衝立のようなヒンプンがある。万次郎はこのヒンプンを飛び越えて外に出ていたという。
 銅像の写真は「沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念誌」から。

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このとき万次郎はまだ25歳の青年だから、身も軽い。
 翁長の万次郎記念碑(写真下)向うに道路が少し広くなっている。ここは馬場だったという。馬場で、昔から綱引きが行われ、万次郎も参加したことが伝えられる。綱引きは、「6月ウマチー」という旧暦6月のお祭りと旧暦8月15夜の満月の2回行われる。私の拙文では8月15夜の綱引きに参加したと書いたが、その時は万次郎はもう翁長にはいなくて、6月ウマチーの綱引きに参加したとのことだった。拙文を読んだ大城会長が指摘してくれた。

055 綱引きは、東(アガリ)と西(イリ)に分かれて引く。万次郎がいた高安家は東方だった。この時の綱引きでは、東が勝ったので、万次郎が加わったので東が勝ったのでは、といわれたそうだ。

 まだ高安家を訪問したことがないので、そのうち一度、訪ねてみたい。

 

 新年会は、那覇市のホテルからシェフが来て出張料理をするという豪勢なものだった。料理とお酒をいただくと、余興が始まった。

 事務局長の名嘉真さんは、とみぐすくカラオケサークル仲間達の会長さんでもある。ジョン万会にはカラオケがつきものとなっている。2月には謝恩ステージカラオケ交流歌謡祭を那覇市内で開催することにもなっている。

 新年会には、この歌謡祭に出演する皆さんも参加して、舞台で次々に自慢のノドを披露してくれた。

 もちろん、大城会長(左)、名嘉真事務局長(右)も最初に歌ってくれた。050

 051 名嘉真さんは、「とみぐすく万次郎音頭」という歌の作詞もされて、記念碑の横には、この歌を紹介する案内板も建てられている。

 

 

 

 

 

 村田英雄の曲に「あゝ万次郎」056 という歌があり、舞台でカラオケサークルのメンバーが歌ってくれた。初めて聴いた。

「♪怒涛逆巻く足摺岬 海で育ったいごっそう 父は亡くとも泣くもんか 負けるもんかの男の気概 土佐は清水の快男子 あゝ中の浜万次郎」(一番)

「♪目には手ぬぐい押しあてながら 逢えて嬉しと泣いた母 十と一年十カ月 苦労かけたとお袋さんに わびる男の目に涙 あゝ中の浜万次郎」(三番)

 こんな歌詞である。なかなか勇ましく、勢いのある歌だ。賀川幸星作詞作曲である。

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わがツレも舞台で「愛の賛歌」をカラオケサークルの人のように、伴奏音楽のテープを用意していないので、アカペラで熱唱した。

 最後に高安亀兵さんと記念撮影をさせてもらった。

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元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

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牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

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業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

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牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

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 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

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一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

 

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中浜万次郎のゆかりの地、豊見城市(とみぐすくし)の瀬長島にある「空の駅 物産センター」に、万次郎にあやかった「ジョン万焼」「ジョン万そば」が登場しました。

 

 


 万次郎は、1851年、アメリカから帰国するさい、当時の琉球に上陸し、豊見城村翁長(おなが)に半年間、滞在しました。そんな縁で、昨年「沖縄ジョン万次郎会」の創立20周年事業として、同市翁長にジョン万次郎記念碑が建立されたばかりです。


 「空の駅」の食堂のオヤジさんに、どういう縁でこのメニューが作られたのか尋ねてみました。「これはですね、ジョン万次郎の5代目当主の方が、万次郎会20周年のおり、お見えになりまして、これをつくって下さい、ということになったんですよ。そばは、中味は沖縄そばですが、ジョン万そば、と名付けたんです。橋本前高知県知事もおいでになり、ジョン万焼を食べられましたよ」とのことだった。


 瀬長島は、那覇市に近く、島だけれど道路が通じています。とても気軽に行ける島なので、いつも家族連れでにぎわっています。それに、那覇空港に近くて、島の真上を通過して離着陸する航空機が良く見えるので人気があります。観光スポットであり、若いカップルのデートスポットでもあります。


 というわけで、瀬長島に「空の駅」があります。ジョン万焼は1個100円(もち入り)、ジョン万そばは500円。ちょうど、昼食を食べたあとだったので、今回は味見はできませんでした。ジョン万あやかりメニューが、沖縄の観光スポットに登場したのも、沖縄でジョン万次郎がとても親しまれていることのあらわれでしょう。

 

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中浜万次郎の銅像

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「土佐の銅像」第6回目は、中浜万次郎です。

 

1010ジョン万次郎.JPG 

 

*中浜万次郎(18271898

*銅像所在地:高知県土佐清水市 足摺岬

*銅像製作:大谷研 昭和43711日建立

 

土佐清水市(中浜村谷前)の漁師の次男として生まれる。

14歳:アジ・サバ漁に出て暴風雨に遭い、鳥島に漂着する。

15歳:143日間の無人島生活の後、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される。

16歳:ホイットフィールド船長に見込まれ、合衆国本土で教育を受ける。

25歳:11年ぶりに母親と再会する。

28歳:航海学書を執筆する。4年後には英会話書を編集する。

33歳:批准使節団の一員として、咸臨丸にて合衆国に渡る。

享年71歳。

 

「数奇な運命」としか言いようがなく、ここに全く記述し切れておりません。

遭遇したことだけでなく、本人の才能と努力においても、並々ならぬものを感じます。

 

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撮影は20062月で椿には少し遅かったのですが、足摺岬はいつだって絶景です。

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土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ

ジョン万次郎ファンクラブ

土佐清水市ファンクラブ


中浜万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸し、半年間滞在した豊見城市翁長(とみぐすくしおなが)に、ジョン万次郎記念碑が建立され、9月12日に除幕式が行われた。

この碑は、沖縄ジョン万次郎会が昨年11月から20周年記念事業として計画し、約150万円をかけ建設した。

 

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060.jpg 万次郎は、1851年、糸満市の大渡海岸に上陸し、薩摩藩の取り調べを受け、琉球王府から滞在を命じられ、豊見城の翁長で半年間過ごした。滞在した高安家から手厚いもてなしを受けたといわれる。

 
050.jpg 碑文は「半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」と記されている。
 
「とみぐすく万次郎音頭」という歌も作られ、碑の横にその歌詞や万次郎の経歴・年譜を記した看板も建てられている。
 
 
051.jpg 碑が建てられた場所は、翁長の翁長共同利用施設の前庭であり、用地は翁長自治会が無償で提供したという。約120人の個人・団体から寄付が寄せられたという。
 
 
 
 
 
 

ご無沙汰しています。変わりありませんか。
ジョン万次郎について下記のようなことがあるのでお知らせします。
 
 ジョン万次郎がアメリカから日本に帰る際に上陸した沖縄で、万次郎の記念碑を建立する計画があります。
準備しているのは、日本開国の先駆者である万次郎を後世に語り継ごうという「沖縄ジョン万次郎会」です。
 
会は、結成20周年の記念事業として、万次郎が半年ほど抑留されていた豊見城市の翁長(おなが)という場所に予定しています。この記念碑は、9月12日に除幕式を開くことにしており、いま基金協力を呼び掛けています。
 
 
 万次郎は同市翁長の高安家に軟禁されていました。万次郎は役人から取り調べを受けましたが、一方で地元の住民とも交流し、手厚くもてなしを受けたそうです。
 
豊見城市と万次郎の生まれた土佐清水市は、毎年、少年野球大会を開くなどいろいろ交流がされています。記念碑ができれば、万次郎の功績を沖縄で伝える上で役立つでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

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