カレンダー

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち高知市北FC(横内・福井・万々・初月・秦・薊野・布師田・一宮)カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは高知市中FC(旭街・上街・小高坂・江ノ口・高知街・南街・北街・下知)です。

次のカテゴリは高知市南FC(潮江・春野・横浜・瀬戸・長浜・浦戸・みませ・三里・五台山)です。

最近の記事はインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

高知市北FC(横内・福井・万々・初月・秦・薊野・布師田・一宮)の最近のブログ記事

土佐神社

 場所は、高知市のJR高知駅より東北へ約4km余り、JR一宮駅より北へ1kmの地点にある。

 土佐神社は志那祢(しなね)様で親しまれ、毎年8月下旬の志那祢祭は土佐三大祭として賑わう。

   志那祢は、風の神の「志那都比古」からとも、新稲がつづまったともいう。 

  土佐三大祭とは、志那祢祭、一条祭(四万十市)、三つ目が面白いことに久礼八幡宮祭(中土佐町)、秋葉祭(仁淀川町)、椙本神社(大国様)祭(いの町)というようだ。

 社名は、都左坐神社や土佐高賀茂大明神などを経て、明治4年(1971)に現社名に改称された。

(下の写真は楼門。参道への入口。楼門左側の道は参道に沿った車道で、奥に駐車場がある。

P1010275.JPG

 祭神は、味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ。事代(ことしろ)主神とも)。二祭神(同一神とも)は古来より賀茂氏が大和葛城で厚く祀った神で、葛城氏または同族が土佐国造(くにのみやつこ)に就任の折り土佐に祀られたと伝える。

 創建は、雄略天皇(5世紀後半)時代とされ、土佐の総鎮守である。

P1010277.JPG

P1010280.JPG 

 社殿は、永禄6年(1563)長宗我部元親と本山氏との戦火で焼失したが、元親が四国平定を祈願して元亀元年(1570)に再建した。

 再建の様子が「土佐物語」(宝永5年(1708)吉田孝世著。軍記物語)にある。

 「京都より大助(大助かり)とて隠れなき上手の大工、並びに桧皮師を呼び下し、同(永禄)十年(1567)手斧始め、元亀元年(1570)棟上げ有り。四十座の末社、仁王堂、護摩堂、鐘楼堂、三昧堂、経蔵、宝蔵、経所、東西の塀門、一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居、三重塔、神宮寺、長福寺、和尚・神人の社屋などにいたるまで造営し...工人妙を極め、丹青(彩色)の飾りを尽くし、言語道断(言葉で言い尽くせないほど立派な様子)の壮観なり」

 当時の神社の伽藍の壮大さが伺われる。

 社殿は入蜻蛉(いりとんぼ)式建築。古事記に雄略天皇が蜻蛉を勝虫(トンボは前進飛翔する)と名付けたことから、勝運をもたらす蜻蛉式にしたと伝わる。凱旋して勝虫が還った様、すなわち、北奥へ頭を向けた状態である。

 元親は当神社を凱旋報賽(ほうさい)の社(凱旋のお礼参りの神社)として崇尊した。

 ちなみに、長浜の若宮八幡宮の社殿は出蜻蛉式建築である。

 永禄3年(1560)、元親は父国親に従い本山氏の支城の長浜城を攻略した際、長浜の若宮八幡宮の馬場先に陣所を構え、初陣の戦勝を祈願して勝を納めた。この契機に若宮八幡宮を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉式建築(拝殿が蜻蛉の頭部、本殿が蜻蛉の尻尾)に改めた。出陣に際し、勝虫が今飛び立つ様、すなわち、頭を南手前に向けた状態である。

 土佐神社の国重要文化財は次の通り。

  社殿(本殿、幣殿、拝殿) 元亀元年(1570) 元親建立。明治37年(1904)指定。

  鼓楼 慶安2年(1649)  2代藩主忠義建立。昭和9年(1934)指定。

      写真下赤い建物が鼓楼。鼓楼は鐘撞堂のことで、鐘はないとのこと。

     楼門(神光門)寛永8年(1631) 忠義建立。昭和57年(1982)指定。

P1010279.JPG


善楽寺(三十番札所)

 桓武天皇の頃(781806年)、大師が一ノ宮(土佐神社)別当寺(神社に付属して置かれた神宮寺)として建立し、30番霊場とした。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、昭和4年(1929)、大師像や寺宝がもどり復興した。

 なお、善楽寺の代行を勤めていた安楽寺は善楽寺の奥の院となっている。

P1010315.JPG


礫石(つぶていし)

 古伝に土佐大神が御船で土佐に遷った時、浦の内に宮(鳴無神社)を建てた。480年頃、御神体が顕われ、ここは神の御心にかなわずと大きな石を投げ、その石の落ち止まる所に宮を祀れと仰せあった。その石は不気味な音をたてて飛び、14里を隔てたこの地の上空を7日7夜廻って落下した。

この石は、この当神社地を決定した大切な石で、古来これを礫石と称した。浦の内の鳴無(おとなし)神社と当神社との関係はこうした経緯があり、かつては、当社の御神幸が船で浦の内へと行われた。この神社地は蛇紋岩の地層で、礫石は珪石であることから、学会ではこの石を転石と称して学問上特別の資料とされている。

P1010282.JPG

HN:バンダナ

HN:バンダナ さんの記事


国清寺 
 前回の国清寺(高知城下の鬼門の守り神の牛頭天王宮(現掛川神社)の別当寺であった)の第4世住職に黙堂和尚が就いた。

 黙堂和尚は、黙堂寺縁起によると、1679年?に下野の国(栃木県)に生まれ、天台宗比叡山で12年間修行し、42歳で国清寺住職となる。同寺は牛頭天王宮とともに藩主の尊崇を受けた。62歳で同寺を辞して石城寺を建て、82歳で没した。

赤坂観音堂と石城寺跡
 石城寺は黙堂和尚の引退後の寺で、天台宗国清寺の末寺。黙堂寺の南の山麓にあったとされ、寺地は約620坪(2050㎡)といわれるが、その伽藍は不明。幕末から明治にかけて起こった廃仏毀釈で廃寺となった。現在は観音堂(準胝観音、写真上)と宝篋印塔(写真下)が残る。

P1010191.JPG
P1010196.jpg
黙堂寺(真言宗)
 寺縁起によれば、本尊は準胝観音で、黙堂和尚の墓を守る本堂、五大力明王の護摩道場、鎮守清瀧大権現の祠がある。

 昭和の初期に寺の開祖が難病となり、法経堂の地蔵尊に願掛けの後、下の方からの呼び声をたどると黙堂和尚の墓に到った。そこで願掛けすると難病が直ったことから、墓を守る祠を建てた。戦後間もなく本堂を建立した。(写真上は黙堂寺入口。写真下の左奥の山頂に見えるのが「法経堂」)

P1010199.JPG

P1010238.JPG

法経堂

 黙堂和尚は法力に優れていたという。

 比叡山の火災をその上空に雨雲をもたらして消火したとの話が伝わる。

 また、土佐藩飛脚が江戸からの重要書類を運ぶ途中、法経堂でその書類がないのに気づき、来た道を引き返して懸命に探したが見つからず、ついに責任をとって自害した。

 その後、書類を探すケチ火(怪火)が出没し、人々が恐れた。

 それを聞いた黙堂和尚は、石の地蔵尊と宝篋印塔を法力で軽くして人々に運ばせ、地蔵尊と宝篋印塔を建てて自害の飛脚を供養した。

 その後、ケチ火がおさまったので、同和尚はここを法経堂と名付けたことから、多くの人の参拝が続いたという。

 地元の古老から、法経堂は小学校の遠足場所であったと聞く。(写真上は地蔵尊。写真中は宝篋印塔。写真下は岩場からの遠望)

 宝篋印塔の南に岩場がある。ここから浦戸湾から以東が見渡せる。

P1010242.JPG

P1010249.jpg

P1010258.JPG

 

黙堂寺から法経堂までは、距離2km、歩いて45分〜1時間。健脚の人は法経堂からさらに北へ歩くと、正蓮寺ゴルフ場に出る。ゴルフ場に沿って東へ歩くと、土佐神社へ到る「四国のみち」がある。


 黙堂和尚関連史跡案内図

P1010266.JPG


HN:バンダナ



 JR薊野駅(高知市)の西方100m32号線北側に掛川神社がある。

P1010236.JPG 参道に続いて石段を上がると拝殿と本殿の境内である。

P1010202.JPG


 国道からの入口の鳥居。











P1010207.JPG 拝殿は新しくなったばかりで、今年落成祝いという。

 

 掛川神社の歴史は、江戸時代初期の1641年(寛永18)二代藩主忠義が産土(うぶすな)神(生まれた土地の守り神)の牛頭(ごず)天王(厄除の神。頭上に牛の頭を持つ忿怒相)を遠州掛川(静岡県、山内一豊移封前の地)から勧請して、高知城東北の鬼門の守護神に牛頭天王宮を建てたのが始まりである。

 1868年(明治元)掛川神社と改称される。

 幾つかの神社を合祭しているが、その一つの東照神社は1680年(延宝8)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設け、江戸時代後期の1814年(文化11)に12代藩主豊資が境内に社殿を築造して東照大権現と称したが、1868年(明治元)東照神社と改称し1880年(明治13)合祭した。

P1010232.JPG

 その証が拝殿の軒奥に徳川将軍家の「三つ葉葵」紋である。









P1010226.JPGP1010233.JPG









 また、参道石段の手水場の石手水鉢の正面とその側面も「三ッ葉葵」紋がみられる。「三ッ葉葵」紋は土佐の神社のうち唯一のものという。


 掛川神社の石段手前を左折して右手の高台に国清寺がある。南面に庭のある一見民家かと見間違う建物である。

P1010216.JPG

 国清寺は江戸初期の1617年(元和3)、比島・龍乗院の開祖日讃和尚の開山。

 牛頭天王宮(現掛川神社)の別当寺(神社に付属して置かれた寺院)。 

 徳川家の菩提寺・上野寛永寺(天台宗)門主支配の寺で、三重塔や護摩堂などがあったという。 藩主の尊崇は篤く、上級武士や学者文人とも深い交流があった。

 だが、明治維新後の廃仏毀釈(国の神道国教化政策による仏教排斥運動で、仏堂、仏像等の破壊が全国的に起こった)により廃寺となる。庭には破壊を示す傷ついた石仏がある。

P1010234.JPG

 傷ついた石仏

 首のない石仏、首の代わりに石をのせた石仏、安産地蔵尊は三つに割れて継いでいるなど痛ましい姿である。





P1010235.JPG

P1010213.jpg

 1870年(明治3)、政府による切支丹弾圧で土佐へ総勢116人が縄で繋がれて松山から険しい四国山脈を越え、越知の横畠を経由して赤岡と江の口の牢に収容されたが、過酷な環境で三分の一ほどが死亡する。

 1871年(明治4)〜1873年(明治6)まで、90人ほどが牢舎から同寺に移され生活していたという。

 1873年(明治6)、総勢83人の切支丹は許されて長崎のかえされた。

 1880年(明治13)、京都相国寺の独園大禅師がここに参禅道場・退耕庵を開いたことを契機に国清寺を再興した。

 現在の国清寺は臨済宗相国寺派の禅寺で、本尊は釈迦如来である。

 掛川神社の参道に同神社と国清寺の解説板がある。

HN:バンダナ

 


 岡田以蔵、幕末の京で「人斬り以蔵」でおそれられた暗殺者ではある。
 「龍馬伝」で人気を得て墓参りに多くの人が訪れ、墓は供花で埋もれていた。今でもそれは衰えていない。
 その人気の秘密は?と考える。剣技?一途さ?純情?行動力?
 ともあれ、下図を参照に墓へ行ってみよう。
P1010224.JPG

 墓は高知市東北部の薊野・真宗寺山にある。
P1010157.JPG

 「ヤマダ電機高知店」の北側の電柱(中央左)にある標識が入口である。
 
 歩いて5分。
 道は私設駐車場の北の標識から以蔵絵金墓分岐までが上り道である。
         
P1010158.JPG




















P1010160.JPG

 白い看板の横に「以蔵の墓100m」「絵金の墓180m」の標識がある。
 絵金に興味のある人は是非、絵金の墓へ足を延ばしてはいかがか。
ここから2〜3分である。



P1010163.JPG
 上の分岐から来ると道が左右に別れる。
 中央右寄りにT字の標識と、中央奥の左寄りの白い標識に従う。
 









P1010165.JPG
 
 中央の横並びの墓が以蔵一族の墓。
 その一番奥に以蔵の墓がある。
 











P1010167.JPG
 以蔵は字(あざな、通称)、宜振(よしふる)は諱(いみな、本名)。
例えば、武市半平太の墓碑は「武市半平太小楯」で、半平太は字、小楯(こたて)は諱である。
P1010171.JPG
 墓地に「以蔵情報板」と「記帳」(右端野の引き出し式箱)がある。
 情報板に次の記載があった。
 昨年7月5日〜今年9月5日の記帳者数
 市内230、県内154、大阪府147、神奈川86、兵庫80、東京都75、香川60(以下略)計1391

 司馬遼太郎の著「人斬り以蔵」では、以蔵の身分は4人扶持の足軽で、貧乏の故、剣術は自己流で、学問に付けなかった。武市の先祖は伊予の出で、以蔵の先祖はその武市家の家来であったことから、武市半平太の道場に入門する。
 以蔵は武市半平太の命で京で暗殺剣を振るう。半平太は自分には理論と正義があるが、以蔵はただの殺人者で、我が下僕、先祖は我が祖の家来で、無学な者として扱う。
 容堂の安政の大獄からの政権復帰で、土佐勤王党は壊滅となり、武市も以蔵も捕われた。以蔵の白状をおそれた武市は以蔵に毒薬入りの弁当を差し入れたが、毒薬の効果はなく失敗する。再び手紙と毒薬を差し入れるが、以蔵は「ここまで自分の都合で吾を利用し支配するのか」と作者はその心境を語らしめて、終に首領・武市に牙を剥いて自白したことから、勤王党員は次々と刑罰を受けた。
 以蔵も梟首の刑を受け、雁切河原の獄門台に晒された。享年28歳。
 
 史実の点と点を小説家は繋ぐのだが、「龍馬伝」でも武市の以蔵に対する扱いが、これと似たように表現されていて哀れを誘った。

 時代の流れに多くの若者が翻弄されたことを思えば、以蔵の墓を訪れる人々の想いが伝わって来るようである。

HN;バンダナ


















 

立秋の候、いよいよ山の季節ですね。

「アジロ自然の森」もみんなで楽しめる「イべント」を計画しています。

 9月は、こどもも大人も森に入ってのこぎり体験をし、森を綺麗にして、

自分たちで切った木で「クレフと」を作って遊びます。

 間伐材皮はぎ体験の出来るよ。実におもしろくてはまるよ

 

アシロ山の自然と環境を守る会

TEL 843-8533

もこぎり体験-緑推.jpg

アジロ自然の森 に関する記事

HN:森の助っ人

高知西ファンクラブ

子どもの遊び場・高知 

イベント情報高知


こんばんは。『ウェルネス高知院』です。

日曜日は、故郷岐阜にて仲間の先生達とフリマをしてきました。

大変多くの方に利用していただき、高知でもこれだけのフリマが出来るようにがんばなければと、やる気を持って帰ってきました。

それでは、ウェルネス高知院での取り扱いサプリ ナノカルシウム商品の紹介をさせてもらいます。

 

                          名称:カルシウム含有食品

ナノカル写真.jpg                             原材料名:骨焼成カルシウム、粉糖、乳糖、食用乳清カルシウム粉、レモン果汁末、オリゴ糖、コラーゲン、カゼインホスホペプチド(乳由来)、大豆抽出物、アカシア(増粘剤)、クエン酸、香料、リジン、アルギニン、ビタミンD

 

ナノとは、10億分の1メートルの大きさ(1mmの100万分の1)を表す単位です。

例えばで言うと、タバコの煙の大きさの単位に匹敵します。細かすぎて、口の中からもシュワーと吸収していきます。

通常の栄養というのは、いくつかの分解・変化をしながら腸から吸収されます。

このナノカルシウムは口の中からも吸収されるので、吸収率も良く、効果の実体験もわかりやすいです。

皆様のカルシウム摂取量は、不足していますよね。

食生活の中での不足分を・カルシウム不足がもたらすさまざな不調をナノカルシウムで解消してください。

 

この機会にぜひ、ウェルネス高知院にてご体感をオススメしますね。

 

 

ウェルネス高知院

 

カイロプラクティックの『ウェルネス高知院』に関するページ

高知北ファンクラブ

健康と医療高知


高知での初フリマフリマの写真1.jpg

やっぱ、初めては緊張したなぁ

でも、周りの温かい声にも助けられ

お客さんとの出会いもあり

カイロってすごいね!!

歪みを整え健康に 

陽気に明るく景気よく!

 

 

 

 

 

カイロプラクティックの『ウェルネス高知院』に関するページ

 

高知北ファンクラブ

 

健康と医療高知


はじめまして。

2010ブログ教室に参加させていただきました『ウェルネス高知院』の山田国博と申します。

これから少しづつこのブログを使って、私のお店の紹介や健康に関する情報を発信していきたいと思います。

ブログも高知での生活も不慣れな私ですが、高知ファンクラブをご覧の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

 

さて、

痛みの原因である骨盤・背骨の歪みを徒手によるやさしい施術で整えてくれる『ウェルネス高知院』。整えた身体を維持する為の方法も教えてくれます。カイロプラクティックを知っている方も知らない方も・・・ぜひ体感してください。

9/1(水)高知にOPENしたばかりですが、多くの方に利用していただいております。

カイロを通じて高知県民の健康の輪を広げること、そして家庭内ミニカイロプラクターの育成・普及をがんばっていきます。

 

住所 高知市東秦泉寺77-3 Y'Sコート202 ここに地図があります。

TEL 088-820-4158

メール metabotabesugi0715@softbank.ne.jp

営業時間 9002000(完全予約制)

営業日 不定休 駐車場有り

 

 

≪ 活動メニュー ≫

お店では、OPENプレゼント企画として、

通常5250円の施術代が、初回限定2750円引きの2500で、ペアならさらにお得な4000です。

2回目以降は回数券がお得ですよ。

この機会にあなたの歪みをチェックし根本から改善していきましょう。

 

フリーマーケット

9/29(水)ひろめ市場のよさこい広場 900~  

   ワンコイン施術として、まず骨盤調整を500円で致します。

   そして、プラス1箇所500円として肩・背中・腰・膝のいづれかを追加で施術します。

 

無料説明・体験会

10/20(水)龍馬の生まれた町記念館 10時・14時・19時 ここに地図があります。

 

10/21(木)高知市勤労者交流館 10時・14時 ここに地図があります。

 

10/23(土)龍馬の生まれた町記念館 10時・14時・19

   開催時間は全て時間厳守・人数限定のため出来れば事前に予約をしてください。

 

1Dayカイロ体験スクール

10/30(土)岡山市の南ふれあいセンター 10001800 (完全予約制)

 

 

私にカイロの技術を教えてくれた、『全国健康生活普及会』。

その中で活躍している先生方のインタビューが見れる『痛み辞典』を覗いてみてください。

とてもわかりやすいと思います。

        全国健康生活普及会   痛み辞典 

 

 

 

 

 

 

 

カイロプラクティックの『ウェルネス高知院』に関するページ

 

高知北ファンクラブ

 

健康と医療高知


龍馬の育ち方を現代教育に生かしたい・・・高知有数のパワースポット        松原教育長を八畳岩に案内 

hatijyouiwa1.jpg

         (八畳岩は高知城を見下ろす場所にあり、龍馬はよく訪れた場所です。)

 坂本龍馬を語る時、どうしても顕彰や銅像のある桂浜が有名であり、この場所を訪れる人は多い。しかし、川村市議は先には安藤副市長をこの場所に案内している。そして、8月5日には教育長と次長とを案内した。

hatijyouiwa2.jpg

         (田中良助邸の前にある看板を見ながら写真を撮る松原教育長。)

 八畳岩は、龍馬と親交のあった田中良助邸近くにある巨岩で、岩に登ると高知平野や高知城、高知市街地が一望できる。龍馬は脱藩する28歳のときまで訪れた場所である。

 竜馬の時代と寸分違わない場所はこの八畳岩だ。周りの景色は変わったとしても、岩の大きさや位置は変わっていない。岩のうえにあった松の木は枯れてしまったが、城下の町並みは変わったが、この岩だけは少しも変わらない。

hatijyouiwa3.jpg

   (龍馬の気持ちになって市街地を眺める。現代の子供たちにも見せたい場所である。)

 その場所に教育長や次長が上った。東南が開けており、龍馬も高知城をここから眺めたことだろう。時代の流れを、全体的に大きくつかんだ竜馬。鳥の目を持った龍馬を培った場所がここだと感じている。それだけに、この場所の持つ意味は大きいのである。

 高知市内でも有数のパワースポットと考えている川村市議は、龍馬ブームの現在もう一度この場所にスポットを当てることが大事ではないかと、さまざまな人を案内しているのである。

 

 

HN鏡川大好き人間 サダヤンの徒然日記 

鏡川大好き人間 サダヤンの徒然日記

高知市・柴巻の田中良助旧邸 に関する記事

高知市・柴巻の田中良助旧邸 八畳岩を訪問3

鏡川ファンクラブ


高知市上町2丁目から円行寺を経由して、高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問した後、龍馬がよく登ったと言われている八畳岩に行きました。

IMG_3736.jpg

 

IMG_3737-1.jpg

 

IMG_3734.jpg

 

IMG_3742-1.jpg

 

IMG_3747.jpg

出典:田中良助旧邸資料館

田中邸のすぐ近くに、「八畳岩」と言われる大きな岩があります。
晴れていれば、この八畳岩から太平洋が見えます。龍馬もよくここで、田中良助さんとお酒を飲んだそうです。

IMG_3746.jpg

高知市HPより:高知市田中良助旧邸資料館

近くにある八畳岩の上から高知のお城下を見下ろし,はるか遠くに広がる太平洋を眺めながら,将来について語り合ったといわれています。

HN:史跡探訪者

 

高知市・柴巻の田中良助旧邸 に関する記事 

HN:史跡探訪者 さんの記事

坂本龍馬ファンクラブ 


高知ファンクラブのネットワーク